2022.01.16のメモ
:モーリス・ブランショ『私の死の瞬間』及びデリダ『滞留』メモ
死に至るまでの瞬間、死が滞留すること、生の本質
→モーリス・ブランショ『私の死の瞬間』は死を個人的な(内的?)体験に落とし込んで、死の汎人類的側面を損なっているのではないか?
→死は果たして滞留する・しているのか? 死は装束の一部であり帰結ではないのか
→→我々は果たして本当に現在を生きているのか?
:三島由紀夫のモデル小説と『電燈のイデア』引用。仮構のイデア論
初期から続く三島由紀夫の(後年における右翼思想とは別個の)社会派的視点。その実態について
→虚構の美の方に現実を寄せる・修正しようとする作為の存在。三島由紀夫の唯美の本質的概念
→モデル。オブジェたるものと我々の関係性
人生は向こうからやってくる
自分の人生は自分で決めろ。
簡単に言うし、言われるし、世間に溢れているし、お前が死んで喜ぶものにお前のオールを任せるな、という歌もある。
でも実際、人が自分の人生を策定できるなんていうのは思い込み、勘違い、思い上がりのような気がしてしまう。
老人のプリウスのアクセルペダルを踏み込ませない努力が可能なのはトヨタであり我々ではないし、隕石とか鉄骨の落下とかその他事故とか今なら疫病とか、対策はあっても根本的解決は不可能だ。
だからじゃあ我々は人生を選択する余地がないのだからなるようにしかならんので鼻の穴の片っぽで怪しい粉を吸ってスゥゥゥゥっとなるというのもちょっと刹那的でやはりこれもどうかと思う。やけくそになることと平静でいることとはやはり違う。
では人生について人々が介入し得る余地はどこにあるのか、と考えると、それは何処に立って人生を迎えるか、という一点にあるように思う。つまり、人生のイベントが向こうから来るその位置に自分を置く。これは実際に不可能であると言える「自分で決める」ということとは少し違う。
運命的な死には運命的な人生がなければならない。運命的な人生を迎えるにはそれに足る生活上のスタイルがあるのではないか、という考え方だ。
それは例えば小説を書くということ。その小説を人に見せ、規定に合えば賞にでも出してみるということ。
例えば、均整の取れた身体付きを構築して維持するということ。
例えば、冷蔵庫の裏に秘蔵の酒を一つ隠しておくということ。
これは全ては伏線であり、回収されるか否かは天に在します我らが神の策定することであるが、そうした姿勢のないことには物事は転がってこない。
例えば小説を書いていれば、同じく小説を書く人間が現れるかもしれないし、均整の取れた身体があれば恋が巡ってくるかもしれないし、冷蔵庫の裏に酒があれば、死ぬ直前に友に酒を譲ることができる。
そうした伏線をはる生き方こそが、自己を策定するというとこであり、ひいては人生を選び取るということに繋がるのではないか。
結局のところ、人生は選ぶものではなく、向こうからやってくるものなのである。
STGの不可能性
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読者諸兄らがご存知であるかは定かではないが、数学史に残る難問の一つに
『フェルマーの最終定理』
がある。
17世紀フランスで生まれたピエール・ド・フェルマーは”趣味”で数学をやり、そして様々な功績を残して死んだ。
彼が残した人類史に残る難問。
それが『フェルマーの最終定理』である。
フェルマーの最終定理を証明するために、人類が生み出した数多の天才達が考察した末に、1665年にピエール・ド・フェルマーが死んだ後の”328年後”の1993年、イギリスの数学者アンドリュー・ワイルズがこの怪物にとどめを刺した。
これは人類が生み出した”不可能性の神話”の一つであり、”不可能という名の怪物”に挑み続ける人類の歴史的物語の代表例である。
しかし、文学を愛する読者諸兄らがよくご存知である通り、神話とは書き記すことで残されるものである。物語とは、筆記者の存在をもって後世に残るのである。
人類がコンピュータを生み出し、その能力を使った遊戯として生み出したのがコンピューターゲームである。
現在、世界中にゲームは満ち溢れている。スマートフォンでもゲーム機でも、ありとあらゆる場所にゲームがあり、ゲームの存在を知らず、触れたこともない人間の方が寧ろ少なくなりつつある。
では、コンピューターゲームの始祖。母たる母。始祖鳥とは一体どのようなものであったのだろうか?
これは明確である。
マサチューセッツ工科大学の学生、スティーブ・ラッセルが作り出した
『スペースウォー!』
である。
このゲームは、真っ暗な画面に戦闘機を模した自機が二つあり、互いに弾を撃ち合って相手プレイヤーに当てるという対戦”シューティングゲーム”であった。
そうして生まれたコンピューターゲームは様々なバリエーションを持つようになったのは読者諸兄もよく理解しているであろうが、そのより原始的なゲームに近い存在。今や”生きた化石”となったゲームジャンルに、シューティングゲームがある。
(以下STGと略称ス)
STGというジャンルが世間を席巻したのはかの有名な『インベーダーゲーム』であり、日本中でこれは大流行した。
これ以降、まずゲームの第一の流行ジャンルとしてのSTGは数を増やしていった。
STGはしばらくの間人気ジャンルであったが、ドラゴンクエスト・ファイナルファンタジーに代表されるようなロールプレイングゲームの人気が出て、STGはゲームセンターに追いやられた。
そして、ゲームセンターにおいてもストリートファイターに代表される格闘ゲームに追い詰められ、STGはとうとうゲームセンターの片隅で格闘ゲームの順番待ちにプレイされるゲームに成り果てた。
しかし、こうして”余暇”でありながら”苦行”であり”不可能性を有する”ゲームジャンルとしてのSTGの歴史が幕を開けるのである。
その当時、ゲームプレイヤーは皆ゲームが異様に上手かった。
現実のあらゆる場面から追い出されてゲームセンターに逼迫し、或いはゲームの存在そのものによって現実から追い出されたゲーマー達は、格闘ゲームが流行するその直前までゲームセンターでSTGをやり続けていたのだ。
さて。
STGが主だった客を格闘ゲームやRPGに奪われたその先で、尚STGに残った人々。彼等は無論、STGが上手く、そして世間の流行に乗ることを自己に許さない人々であった。
ここでゲームはいわば”大乗仏教”的な世間的流行の中にある格闘ゲーム・RPGと”小乗仏教”的な、或いは歴史的にはチベット密教にも程近い、苦行と修行を自己に課すゲームジャンルとしての歴史が始まったのである。
まず、人気STGの一つ。グラディウスの当時の新作『グラディウスⅢ』は、今もその高難易度で知られている。
ステージは10まであり、その中にはどうしても”運が悪ければ絶対にどんなプレイヤーでも被弾する”(クリスタル面)ステージが含まれていた。
このSTGについている公式の副題が存在する。
『伝説から神話へ』
これこそが、STGの不可能性の始まりの文言であった。
次に、STGを多数発表した東亜プランの新作STG。
『達人王』
これもまた、狂気的な難易度を有する作品として有名である。
これにもキャッチコピーが存在する。
『達人を越えて王となれ』
これらの作品はとてつもなく難しかった。
難しかった”はず”なのである。
しかし、シューティングゲーマー(以下シューターと略称ス)はこれらをクリアした。例のクリスタル面に至ってはプレーヤー個人によるその場面を練習するだけのシミュレータまで作られた。
こうしてSTGは、不可能性を有する狂気的難易度を持つゲームと、それを攻略し尽くす狂った達人達の神話的闘争が展開されるようになった。
無論、そういったタイトルばかりではなく、遊んで楽しいSTGもあったし、生み出され、人気もそれなりにあった。
しかし、そうしたシューティングゲームに留まることをしなかったシューター達はより高みを目指し、自己に”苦行””修行”を課すSTGへと上り詰めていった。
無論、世間はSTGを垣間見るどころか、STGから離れていった。
シューター達はその苦行を半ば自嘲的に考えながら、シニカルで引きつった笑みを浮かべ、画面の見過ぎで落ちた視力を眼鏡で補いながら、STGをプレイし続けていった。
そうして逼迫していったSTGというジャンルは、STGに関わるゲームハードや会社に敗北の結末を与えた。
STGが流行するゲームハードは何故かゲームハード戦争に敗北する。これはゲームハードの歴史が証明している。
(PCエンジン、メガドライブ、セガサターン、XBOX360)
そして『達人王』を生み出したゲームメーカー東亜プランは倒産し、『グラディウス』のコナミもまたSTGではなく、実況パワフルプロ野球といった野球ゲームを作るようになり、現在に至っては事実上のフィットネス経営会社と成り果てている。
しかし。
それでも尚。
STGは生み出され、作り続けられた。
ゼロ年代を代表するコンテンツ『東方Project』は弾幕STGであり、STGという晩年を迎えたゲームコンテンツに新たなプレーヤーの出現を齎した。
そして、世間の表街道を征く『東方Project』の裏側で、その東方に強く影響を与えながら、世界の裏側……ゲームセンターにSTGを発表し続けたメーカーがある。
株式会社ケイブが、それである。
このメーカーは『怒首領蜂』を作り、世間に弾幕STGというジャンルを生み出した偉大なる中興の祖であったわけだが、同時に一つの悪癖を持っていた。
株式会社ケイブは、人類に挑戦するのである。
かつて『グラディウスⅢ』を攻略し『達人王』を打ち倒し王となったシューター達に、彼等は挑戦状を叩きつけたのである。
そもそも『怒首領蜂』からして異常であった。
『怒首領蜂』とは、花火の如く打ち上がる大量の弾を当たり判定の小さい自機の強力な攻撃でもって撃破することで独特なカタルシスを表出させる脳内麻薬発生装置なわけであるが、その真ボス”火蜂”は当時のシューター達を驚愕させた。
まず、自機を無敵にし強力な攻撃を放つ回数限定の”ボム”を撃つと、火蜂はバリアをはり、その攻撃によるダメージをゼロにした。
当時画面上に同時256発までしか表示出来なかった弾を、プログラミング上においては”256発以上発射するように”プログラムした。
アーケードゲーム攻略雑誌『ゲーメスト』誌面において
「どうやったら火蜂の攻撃を避けることができるんですか?」
と質問がなされ、ケイブは公式に
「気合いで避けて下さい」
と回答した。
その続編『怒首領蜂大往生』はゲームとしての完成度をより高めながら、同時にあの『火蜂』を超えるボスとして『緋蜂』を生み出した。
攻略された。
ケイブが出したSTG『虫姫さま』において”真アキ”が登場する。
このボスはボム無効化のバリアは無論のこと、ボムを撃つと大量の弾を撃ち返すという仕様まで盛り込まれ、とうとう攻略不可能であるかのように思われた。
攻略された。
そうしてケイブは『怒首領蜂大往生』をPS2に移植し、ボスラッシュモード『デスレーベル』を作った。
2003年に生み出されたPS2版怒首領蜂大往生のデスレーベルでは、最終的にあの『緋蜂』が二体同時に出てくる。
「怒首領蜂大往生デスレーベルは攻略不可能なのではないか?」
当時のシューター達はそう思い込んでいた。
私も、そう思っていた。
しかし。
かの2010年。
9月18日。
怒首領蜂大往生デスレーベルは、攻略されたのである。
次に怒首領蜂大復活においても同様に真ボスが設定された。
これも、攻略された。
そして、怒首領蜂大復活のセルフアレンジ。
『怒首領蜂大復活ブラックレーベル』
において、怒首領蜂大復活の真ボスをさらに強化した真ボス『Zatsuza』が現れる。
このボスについて、私には思い出がある。
当時のプレーヤーであったC氏が、株式会社ケイブのイベント会場に登場し、こう言ったのである。
「ゲーセンでこのボスを出した三回目に、ノーコンティニューで撃破した」
それを聴いたケイブの開発者、池田恒基は。
「えっ……三回? 三回……はぁあああ……」
そう言って脱力する池田恒基を見てプレーヤー達は笑った。私もその現場に居た。
そうして、様々な事情によって会社が傾いたケイブが出した怒首領蜂シリーズの最終作『怒首領蜂最大往生』において”魔法少女まどか☆マギカ”主人公、鹿目まどかのと同じ声優・悠木碧の声で、とうとう”ヒバチ”は最後の姿を表した。
『陽蜂』
である。
魔法少女まどかマギカに影響を受けたらしく、あのままの声で、陽蜂はボムを撃つとバリアをはり
「バーリアー! 平気だもーん!」
と叫ぶ。
攻略された。
しかし、ケイブはとうとう陽蜂のさらに上を行く、同ゲーム最大のボス『陰蜂』を生み出し
2012年から現在。
2020年1月13日に至るまで。
『陰蜂』は、撃破されていない。
ケイブが出した真ボス「火蜂」において登場したシュバルリッツ・ロンゲーナはプレーヤーにこう宣告する。
『死ぬがよい』
そして『怒首領蜂最大往生』の真ボス。
陰蜂は、プレーヤーに対し言うのである。
『終わりだ……死ぬがよい』
果たして、我々の戦いはとうとう終わりを告げたのであろうか?
それは分からない。
けれども、一つだけ言えることがある。
ありとあらゆる困難が排除され、克服される現代において唯一、人間にとり不可能な領域が残された、誰にでも触れることの出来る”不可能”が、STGというゲームジャンルには、残されているのである。
三島由紀夫とその血族
1970年11月25日に壮烈な自決を行った作家・三島由紀夫の血縁が一種錚々たるものであることは、一部読書家の間で有名である。
三島自身は自らの血筋について
「私は血すぢでは百姓とサムラヒの末裔だが、~」
と語っているが、では彼の血筋を辿っていくと誰に行き着くのか?
彼の父の名前は平岡梓と言い、農商務省の官僚である。この農商務省というのは戦前に存在した省庁の一つであり、現在は存在しない。
その父。つまり、三島由紀夫から見て祖父にあたる平岡定太郎は樺太庁の三代目長官であったが、疑獄事件によって失脚する。
祖父の疑獄事件後について三島由紀夫は『仮面の告白』の中で以下のような記述を行っている。
震災の翌々年に私は生れた。
その十年まえ、祖父が植民地の長官時代に起った疑獄事件で、部下の罪を引受けて職を退いてから(私は美辞麗句を弄しているのではない。祖父がもっていたような、人間に対する愚かな信頼の完璧さは、私の半生でも他に比べられるものを見なかった。)私の家は殆ど鼻歌まじりと言いたいほどの気楽な速度で、傾斜の上を
(中略)
祖父の事業慾と祖母の病気と浪費癖とが一家の悩みの種だった。いかがわしい取巻き連のもってくる絵図面に誘われて、祖父は黄金夢を夢みながら遠い地方をしばしば旅した。古い家柄の出の祖母は、祖父を憎み蔑んでいた。
三島由紀夫の『仮面の告白』の表記をどこまで信じるべきかというのも一つの議論の焦点だと言われる(本人が”半自伝的小説”と呼んでいる)わけだが、祖父が疑獄事件によって失脚し、樺太庁長官の職を退いたのは紛れもない事実であり、また私個人の判断で、この半自伝的と呼んだ小説について
「三島由紀夫自身(作中における私)の自意識」
にのみ隠された裏側或いは本人が気付かない領域が未記述のまま残っている、という考え方を取りたい。
少なくとも、祖父が疑獄事件によって失脚したことや、この祖父と祖母の関係性について非常に言い難い部分が存在していたことは、三島由紀夫の父である平岡梓及び母倭文重によって書かれた評伝『倅・三島由紀夫』を読めば明らかである。
さて、ではこの樺太庁長官となった平岡定太郎から辿る平岡家とはどのようなものであるか? これは端的に言えば農民・平民である。
明治維新に至るまで苗字さえ持たなかった一族であり、この『平岡』という苗字は当時の一族が住んでいた地名から取られたのではないかと言われている。
この平岡家の六代目・太吉が経済的に成功を収め、自身の息子たちを学業のため東京へやった。そのうちの一人が、樺太庁長官となった三島由紀夫の祖父・定太郎である。この平岡家は先述した太吉の時代に、何やら”お上に逆らうようなことを”して所払い……つまり、引っ越す羽目になったそうなのであるが、ここでは割愛する。
さて、次は祖母の血筋を見ていきたい。
三島由紀夫の祖母・なつ(通称・夏子。戸籍名はなつ。場合により奈津・奈徒などの表記が存在するが、ここでは『なつ』で統一する)の血筋は堂々たるもので、なつの父……三島由紀夫から見て曾祖父に当たる永井岩之丞は明治期の裁判官であり、永井尚志の養子であった。
この永井尚志というのは、幕末好きには少し名の知られた人物かもしれない。
その祖先に、戦国時代の小牧・長久手の戦いにおいて池田恒興を討ち取った武将・永井直勝を置き、彼・永井尚志は幕末においては幕府の要人の一人として数えられた。
幕府が決定的な敗北を喫した鳥羽・伏見の戦い以降も榎本武揚に付き添い、箱館戦争に至るまで同行し続けた人物である。
幕末三大人斬りの一人とされる田中新兵衛が捕らえられた時、その監視役を務めていたのが彼・永井尚志であり、この時に田中新兵衛が自決したために、永井尚志は今でいう謹慎処分を受けた。
後に三島由紀夫は映画『人斬り』の中でこの田中新兵衛役を演じることになり、林房雄宛の書簡において
「明後日は大殺陣の撮影です。新兵衛が腹を切つたおかげで、不注意の咎で閉門を命ぜられた永井主水正の曾々孫が百年後、その新兵衛をやるのですから、先祖は墓の下で、目を白黒させてゐることでせう」
と書いたとされている。
また、永井尚志が箱館戦争・五稜郭の戦いまで付き添ったということは、新選組の土方歳三や彼に付き添っていた市村鉄之助らとも面識があったということにもなり、永井尚志が歴史の中に明確な足跡を残した人間の一人であることが伺える。
三島由紀夫の祖母・なつの父である永井岩之丞も、この養父・永井尚志に付き添って五稜郭まで行ったとされており、彼が時代もあろう、大量に拵えも拵えた六男六女の一人。その長女が三島由紀夫の祖母・なつなのであった。
この永井家を辿った末の親戚の一人に作家・永井荷風が居るのだが、この系譜図もかなりややこしいような(何せ永井荷風から数えて十二代前まで遡る)ので、ここでは割愛させていただこうと思う。
では実際に、三島由紀夫と距離の近い祖父から話をしてみよう。
三島由紀夫の父方の祖父・平岡定太郎が樺太庁の長官であったことは再三の記述の通りであるが、どうやら彼はあの有名政治家・原敬に重用されていたようで、例の疑獄事件以降も東京市道路局長を務める等したが、この職も大正9年は辞任。その翌年、大正10年に定太郎の後ろ盾であった原敬は暗殺されてしまう。
「祖父の事業欲が悩みの種」と『仮面の告白』の中で記述が存在しているが、実際に一度、怪しい者に担がれて明治天皇の親筆と偽った書を売っていたということで新聞に顔が乗っているそうで(結局これは不起訴となる)あるが、少なくともこの祖父が原敬暗殺以後に怪しい取巻きを持っていたことは間違いないと考えられる。
母方の祖父。三島由紀夫の母・倭文重の父である橋健三は、開成中学校の関係者・漢学者である。三島由紀夫の母・倭文重はいわゆる文学少女と呼べるような幼少期を過ごしたそうであるからこれはこの橋健三の教育に寄るものではないかと考えられる。
次に語る祖母は重要である。著書『仮面の告白』や『倅・三島由紀夫』その他多数の評伝で少年・平岡公威の基礎を作ったと言及される祖母・なつについて話をしてみよう。
祖母・なつのその系譜を辿れば永井尚志や永井直勝に辿り着くという話をしたが、なつの父・永井岩之丞とその一家は多産であった。その中で、幼少の頃から癇症……つまり、気の短いヒステリックな女性であったとされるなつは有栖川宮家へ行儀見習いとして五年間預けられた。行き先は当時の宮家の一つではあるが、体の良い厄介払いであるという認識もできる。実際に幾つかの評伝(ジョン・ネイスン『三島由紀夫 ある評伝』等)では、そう捉えたと考えられる記述がなされているが、ここでは断言をしないものとする。
このなつと、例の祖父・定太郎の結婚とは、新進気鋭の経済的成功者(しかし身分の上では平民)である平岡家と、多数の子を持つ名家の血筋である永井家の婚姻であったと考えられる。
この、貴族の格付と婚姻とが結び付けられるイメージは三島由紀夫の豊饒の海の一作目『春の雪』のイメージにも重なる部分が存在する。
『春の雪』における主人公・松枝清顕は幼少期に綾倉家へ行儀見習いとして預けられるという過程は、この祖母・なつが有栖川宮家へ預けられる構図を見出すことも可能だ。
祖母・なつは貴族趣味と文学趣味とを持つ文学少女であったと、永井家における弟が後に語っている。
三島由紀夫がその幼年期に谷崎潤一郎、泉鏡花といった日本文学に親しみ、歌舞伎や能を見せられていたというのは有名な話であるが、そうした気質を持つなつが、官僚であり実業家然とした空気を持つ実学的な定太郎と気が合うかと言われれば、かなり難しいことのように思われる。
しかもその上、後年の疑獄事件で平岡定太郎は樺太庁長官の職を辞し、その実領域における権威をも消失した。その事実に、彼の妻であり文学少女であったヒステリックなこのなつが、何を感じたのか……。
歳を取り、坐骨神経痛をも患い、その癇癪に過剰さが加わり始めた頃合いに、孫。平岡公威(後の三島由紀夫)を授かる。
彼、三島由紀夫が学習院に通っていたのは有名な話であるが、彼の貴族の血筋とは母方に遡るもので、三島由紀夫自身……つまり少年・平岡公威は平民として扱われる身分なのである。
当時の学習院は貴族・皇族の師弟が殆どであり、彼が学習院へ入学するには紹介者が必要になったそうである。
それに加えて、幼少期の彼は病弱であり、加えて祖母・なつの過保護な教育もあって身体を動かすのは得意ではない。子供には子供特有の残酷さがある、とすれば彼の学内における立ち位置について……少なくとも、幸福な想像はできそうもない。
祖母・なつのこの一連の貴族趣味。少年・平岡公威への教育傾向は、彼女自身の人生の復讐から来ている、と言ったら……言い過ぎであろうか?
永井家という明確な貴族の家柄に生まれながら、そこで疎まれ、有栖川宮家で過ごした期間は彼女の貴族的意識をより強めたであろう。
そうして渡った先……平岡家においても、定太郎の疑獄事件以後はその実態としての地位を喪失し、外から見れば平民そのものである。
また同時に、三島由紀夫は後年老いに対する恐怖を繰り返し述べている。豊饒の海四部作における、年代を渡っていくキャラクターの老け込み・加齢や『禁色』における檜俊輔の扱いも同様であろう。
こうした老いの恐怖の具現こそが、祖母・なつなのではないか?
かつての祖母・なつは美しい人であった(Wikipediaページ『平岡なつ』の項目に写真がある)というのに、老いて苦しみ、このようになった……。
三世代に渡る平岡家の因習と家庭空気が作家・三島由紀夫の根本にある。
さて。
次に、三島由紀夫の両親の話をしようと思う。
彼の父・平岡梓が文学を理解しない人物であったことはファンの間では有名である。
幼少期に書かれた作品がこの父に見つかると、父はこれが書かれた作文用紙をビリビリと破り捨てて見せたという。現代とは違うのでコピーなどあるはずもなく、書き直した結果、出来が悪くなった作品もあったとされている。
父・梓と彼の気質の違いについては多数のエピソードがある。
息子である公威と妻・倭文重は猫が好きだったが、父・梓は猫が嫌いであったし、その猫を可愛がる息子の気質自体が『男らしくない』と感じ取れたそうである。
そのため猫を捨ててきたり、猫の餌に鉄粉を混ぜて殺そうとしたり、手練手管でこれをやめさせようとするが、結局は上手く行かなかったという。
端的に言ってしまえば、父・梓と平岡公威(三島由紀夫)の本質的な関係性とは、終ぞこの猫の逸話と変わらぬ様子で進行していったもののように思えてならない。
文学にしても同じで、父・梓が息子を男らしく育てようと様々な手を加え、文学を否定し実学である法学に目を向けさせ、とうとう東京帝国大学法学部法律学科へと進学させ、進路についても大蔵省官僚にさせようとした。
ここにもまた、血縁者の人生の復讐という忌まわしい要素が彼に付き纏う。
父・梓は農商務省の官僚であったが、省庁には(現在においても)それぞれの権限の強弱があり、梓は大蔵省官僚から何度も横柄な態度を取られて悔しい思いをした。その結果として父は息子に大蔵省へ入れと言ったのである。
ここから先はよく知られている通り、三島由紀夫は半年とちょっとでこの大蔵省をやめて作家の道を選んでしまう。その時に梓が言ったのは、このような文言であった。
役所をやめてよい。さあ作家一本槍で行け、その代り日本一の作家になるのが絶対条件だぞ
―平岡梓『倅・三島由紀夫』―
なんと都合の良い!……と、私は思ってしまう。
幼少の彼が文学をやることを否定したこの父が、作家と官僚の二足の草鞋を履く生活の中で息子が危険な目にあったとは言え、たんに息子思いの故にそう言ったと考えるには、この父の行動とは矛盾が多すぎる。
作家・三島由紀夫の根幹にある整然としたロジックには、法学で学んだ観念が生きていると奥野健男含む幾つかの論者が指摘しており、実際に三島由紀夫はモチーフとしての弁護というものを複数の作品に込めている。(『奔馬』における清水や或いは『美しい星』のラストシーン等)
しかし、そうした物々を貢献の一言で片付けてしまうには、父と彼・三島由紀夫との関係性は単純なものではないと私は感じる。
仮に、祖母の教育から、後述される母の文学教育について、より早い段階でこの父・梓が諦めをつけていたら、文学者・三島由紀夫はどのような形態を取ったのだろう、という一種のIFも考えられるだろうし、仮にそうでなかったとしても、後の大文学者・三島由紀夫の原稿をビリビリに破り捨てたという事実を軽んじるべきではない。
母の話に移る。
三島由紀夫の母・倭文重の父が漢学者であったことは先述した通りであるが、平岡公威……後の三島由紀夫は、その死に至るまで母を敬愛していた。
若いころの母は大へん美人であつた。(中略)母親は、私にとつて、こつそり逢引きする相手のやうなもの、ひそかな、人知れぬ恋人のやうなものであつた。母には、姑との間の苦労や、子供を姑に独占された悲しみや、いろいろな悩みはあつたらしいが、子供の私には、さういふ悩みは見えなかつた。そして、たまにこつそりと母に連れられて出る日が、私の幼時の記憶の中で、まるで逢引きの日のやうに美しく美しく残つてゐた。
母は私に天才を期待した。そして、自分の抒情詩人の夢が息子に実現されることを期待した。(中略)私は、抒情詩人でもなく天才でもなく、散文作家として成長するやうになつたが、長いこと、その抒情的な夢から抜けられなかつた。私は無意識のうちに、母の期待するやうな者にならうとしてゐたのであらうと思ふ。なぜなら、物心つくと同時に私は詩を書き始めたからである。私の詩や物語の最初の読者は母であつた。母は、私に芸術的才能があるといふことを誇りにした。
―三島由紀夫『母を語る――私の最上の読者』―
彼の父・梓が三島由紀夫の文学的傾向の反対者であったことは紛れもない事実であるが、その上で母・倭文重は彼の文学の賛成者であり最初の読者であった。
しかし同時にこの母は、少年・平岡公威の幼少期における不可能の象徴だったのではないだろうか……という一つの疑問を差し込みたい。
言ってしまえば、大半の子供というのは『親の心子知らず、子の心親知らず』という文言があるように、距離が近いがゆえに或る種の分からなさが生じるものである。
その中で、完全に父が不理解の側に立ち、母が理解の側に立った。
そして、母が理解し肯定するという要素は祖母の持っていた貴族趣味・文学趣味の賜物である。少なくとも少年が、祖母の部屋で音の出る玩具や遊びを禁止され、常に女の子と遊ばせたという事実は、幼い少年にとって実に閉塞的であっただろうと考えられる。そして、祖母の手から離れ祖母が没した後にも父という不理解そのものが彼の文学という可能性を否定し、一種の圧政と反対をしいた。母は賛成者であり、家庭内におけるレジスタンスのような関係性を結んでいたのであろうが、根本的にこの閉塞的状況を解決する術を持たない。
つまり、母とその息子。文学者・三島由紀夫との関係性とは親子ではなく、戦友としての心であり、母はその母たることの役割を遂行し得なかったのではないか?
この苦言を呈する母の抵抗と父の不理解という構図は、平岡梓『倅・三島由紀夫』の中にも表れている。
メインの書き手は父・梓であるのに、そこに定期的に苦言を差し込むような形で
「あなたは息子のことなんて一つも分かってあげなかったじゃないですか」と言うのである。
私にはこの構造そのものが、三島由紀夫とその両親に存在していた(トルストイ風に言うのであれば「不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」という)歪んだ実情を表しているもののように思えてならない。
あなた(梓)みたいな水牛のような行動一点張りの人、無神経な人には、公威の心なんててんで判りっこはありません
(中略)
公威の本当の心の判るのはあたしたった一人なんです
―平岡梓『倅・三島由紀夫』―
また、ジョン・ネイスンの書いた三島由紀夫の評伝の一部を引用する。
三島の両親との会見は、またそれなりに居心地の悪いものであった。母の倭文重は三島の生涯においてもっとも重要な女性であるから、私は父親の梓からのみならず、倭文重の口からも話を聞きたかった。しかし、私が両親の離れを訪ねたとき、倭文重は姿を見せなかった。だが実際には隣室で私と夫との会話を聴いていて、時おり襖越しに夫の言葉を訂正したのである。「あなたが公威を怖がらせたんですよ。だから泣いたんじゃないの」とか、「そばにいなかったのになぜわかるの。あなたは公威がそばに居てほしかったときには、いつでも居ませんでしたよ」とか倭文重はいった。アメリカだったらこんな場合、私は襖越しに挨拶して、私たちの話に加わるように頼んだことだろう。が、東京ではそんなことは考えられない。だから私は、老人が息子たちにほどこしたスパルタ教育のことを滔々と語るのを聞き、いっしょに倭文重がその場に居ないふりをして、何時間も居たたまれぬ思いで坐っていたのである。
―ジョン・ネイスン『三島由紀夫 ある評伝』―
この隣室で襖越しにという要素こそが、この三島由紀夫の母の根本的な特質なのではないだろうか、と私は考える。
ジョン・ネイスンはこの夫婦の応対について、日本的後進性ゆえというような文脈を滲ませるが、果たして本当に、そうなのであろうか……?
一歩引くという日本的美点と、踏み込むことをしないという安全欲求が相互に噛み合い、究極的なところには触れない。そうした大人的な処置・処世術が適用されているような、そんな思いを一読者として抱いてしまう。
さて。
三島由紀夫の親族のうち、その妻や弟などの話も調べてみると非常に面白いし、とくに妻については何故我々三島由紀夫愛読者が情報ソースを集めるのに苦労してしまうのかという理由が詰まっているので、話したいのは山々なのであるが、話の結びに展開したい論理とは直接的な関係を持たないので割愛させていただこうと思う。
以前私は『三島由紀夫と同性愛』という記述の中で
「妹に対する近親相姦的情愛が彼の同性愛の基礎を作ったのではないか?」
と書いたのですが、この妹に加えて母そして祖母という三島由紀夫の二十歳に至るまでの女性の親族を相互に絡めて話をしたい。
奥野健男は著書『三島由紀夫伝説』の中で、このように記述を行っている。
幼い三島は祖母を畏怖し、憧憬し、その心を懸命に読もうとし、今祖母はどう思っている、どう見ている、何を考えている、と次第に祖母の心でものを見、ものの好き嫌いを感じ、考えるようになる。ついに殆ど祖母奈津と無意識的に同一化してしまったのだ。
こうした論理展開から、三島由紀夫の性的嗜好。リビドーの傾向そのものを祖母・なつが規定してしまった……という話を奥野健男はしているのだが、果たして本当にそうなのであろうか?
何故私がそのように疑問を差し挟むのかと言われれば、それは三島由紀夫に存在していた老いに対する恐怖の根幹にこの祖母が関わっていると推測しているからだ。
三島由紀夫は度々、老いることの恐怖やその見窄らしさを作品で表しているというのは読者であれば嫌でも理解できるものだが、確かに彼・三島由紀夫。少年・平岡公威は祖母に恐怖しただろう。
寧ろ私は、三島由紀夫が持つ根源的恐怖の中に祖母は息づいていて、この祖母が観念の怪物として作中に度々キャラクターの形をとって表れたのではないかと推測する。
それは例えば『禁色』の檜俊輔で、この人物は三島由紀夫が仮に文学者として成功して歳を取った末での自画像とも捉え得るであろうが、男性化し、自己が見た老いそのものの恐怖の具現である祖母のイメージが重ねられているのではないか?
豊饒の海四部作における蓼科やみねのイメージ元となり、最後の『天人五衰』においては月修寺門跡(綾倉聡子)となって、主観者である本多繁邦を「夏の日ざかりの日を浴びた庭」へと導くのではないか?
そして、一種の万能を示す家庭内の独裁者。ヒステリックな祖母に対し同一化を図るのであれば、あの美しい肉体に対するサディスティックな情景は。その攻撃性の源となったのは老齢であった祖母が若者に嫉妬していたから、なのだろうか?
もしそうであるならば、三島由紀夫の若さと肉体に対する憧れは老いに対するアンチテーゼとして生じたものということになってしまうのだが、すると今度は老いへの恐怖という主題が若さへの憧れに勝るということになる。加えて、祖母との自己同一化という論点ともズレてくる。その家庭内独裁者は老人であった。であれば、老人に憧れるのがスジなのではないだろうか?
『聖セバスティアンの殉教』によって「ejaclatio」を体験するという過程そのものが彼自身の倒錯を表しており、また汚穢屋の紺の股引きに憧れるという『仮面の告白』において描かれた心理。悲劇的なものに対する情感とは、無論祖母が平民の家に嫁いで苦労したという一種の悲劇もあるであろうが、次に母が不理解の象徴たる父に嫁ぎ、そして自己自身が平民でありながら学習院へと入り苦労をし、夭逝する東文彦や自決する蓮田善明といった周辺人物が存在しているところを考えても、彼自身の悲劇性のモチーフ。イメージ元となる存在は彼の周りに無数に存在しているのである。
初恋相手として『仮面の告白』で描かれている近江に悲劇を見出す精神。そしてその情感には紛れもない嫉妬が存在していたという彼の記述。
「美しさ」×「悲劇」が三島由紀夫の美的モチーフの根幹であったとするならば、その美のモチーフは寧ろ、平岡家という悲劇的なシチュエーションに身を置いている母にこそ見出し得るのではないだろうか。
美しい母という情念は、祖母の手によって母から離れていたというところに端を発する。母が母ではなく、家庭内における戦友であった。
そして以前『三島由紀夫と同性愛』の中で記述した通り、三島由紀夫がある程度の歳になってから初めて出会った活発な同年代の女性が妹であった、となれば……夭逝するという悲劇を妹もまた同時に内包しているということになる。
物事はより複合的に解釈するべきだ、と私は考える。
こうした論点は三島事件そのものに対するある一つの解答にも帰結する。
つまり
「三島由紀夫は、自分自身がサディスティックな情感を向け得る対象となった上で、そのサディズムを自己に適用することによってマゾヒズムを完遂しようとしたのではないか?」
というものである。
彼は(とくに晩年)文武両道というモチーフに強くこだわったが、同時にこのような話もしている。
「私は健康な青年の外面は好きだが、内面は嫌いである」
と。また同時に、自身の妻については
「文学少女などごめんだ。私の作品なんて知らない方がいい」
と話し、また楯の会の会員についても
「私のものを含む文学を好むような人間を入れてはならない」
と語っている。
しかし同時に自己の作品のモチーフでは文武両道を提示し、自己そのものが文武両道という形式を満たそうとする努力をし続けてきた。
文武両道への羨望と、裏返しの矛盾した文学への嫌悪。文学を嗜むものに対する侮蔑……これを一言であらわすのは難しいが、複数の解釈をすることが可能である。
例えば、自己がサディスティックな情感を抱く対象としての文武両道を他者に見出すことで殺人を行う可能性から遠ざかるための社会的な対処。
例えば、自分自身がそうなりたいが故に、そうなってしまった他者を遠ざけようという嫉妬心。
様々な解釈が可能である。
この『三島由紀夫とその血族』という一連の私の記述は、これが正しい解釈であると押し付けるものではなく、複数の情報を提示しながら多義的に解釈することが可能な三島由紀夫という作家そのものに対する賛歌である……という言葉をもって、記述を終了させていただきたいと思う次第である。
以上。
三峰結華の唯一の声優によせて
「きれいだったよ、何もかも」
本当に?
本当にそう言い切れるのか?
自問自答だけが、伽藍堂な私の中で響き渡って、誰も言葉を返さない。
ただ腹が立つ。
けれども、このムカつきは多分、一般的なファン層のものとは違う。
そもそも私はアイドル声優という概念を好まない。
私が中学生の頃、私がオタクになりたてだった頃。
今や古き『ハヤテのごとく』で”なってはいけない対象”としてのオタクになった頃。
『灼眼のシャナ』のライトノベルを机に大量にしまい込んでドン引きされていた頃。
あの頃は丁度アイドル声優流行真っ盛りの時代。
今思えば、林原めぐみの頃からその兆候はあったのであろう、声優のアイドル化。歌手化というその潮流。その中にあって声優の本義はそこにはないなどと生意気なことを考え、思っていた若い時分の私。
今流行りの『推し活』や『推す』という言葉自体、私は好きじゃない。
『推し活』という言葉から私が感じるのは、第一に資本主義への賛美だ。
消費動向が冷え切ったデフレ・経済停滞の長く続くこの日本という国において、とかく消費を前提とし、消費することを良しとし、それをこそアイデンティティとしようとする作為。その流れに私は組み込まれたくなかった。良い物は良い物であり、悪い物は悪い物であり、それを身体に取り込むか否かを決定するのは私自身にこそある。
なのに世間はやれ『推し活』だ、などと言い、好きなコンテンツのライブに駆けつけて会場限定のしょうもないグッズ(全てがそうだと言う気はない)や、会場限定でしか売られない物々にプレミア値をつける中古屋に対する恨み辛み憎しみはこれからも私という一個人に蓄積していくことだろう。
私が『推し活』という言葉に感じる第二の印象は、対象を外部化(他人化)しようとする作為である。
「推しだから」
この一言があるだけで、どれだけの人がその対象を他人のものとしてきただろう。
古くは”推し”などという言葉も存在しなかったアイドル黎明期。花の中三トリオの時代からそういった傾向はあった。
「普通の女の子に戻りたい!」
キャンディーズの伊藤蘭はそう叫び、今もその言葉は残り続ける。
考えてみれば――おかしな話じゃないか。普通じゃない女の子、普通の女の子ってなんだ? いつの間にかアイドルは普通じゃない。僕たち・私たちの側に彼ら・彼女らは居ないことになっている。まるで三途の川のようだ。その彼岸と此岸の境目はどこにあるのだ。何故彼ら・彼女らを川向うへと平気な顔をして人々は追いやることができるのか?
私が好む作家は何人も居る。しかし、彼ら作家と私は川向うではなく同じ場所に居ると思う。本当に川を渡った者だけが向こう岸にいる。何故アイドルや声優は生きているのに、川向うへと追いやられているかのように記述され、そして想われるのか。
アイドルマスターシャイニーカラーズというコンテンツと私の関係性の話をすると、私というユーザーはあまりコンテンツに寄与していない、褒められたものではない類のファンだと感じられるし、他者からそれを指摘されたとしても積極的に否定しようとは思わない。
何せ私は一年間、アイドルマスターシャイニーカラーズを放置していた。
最初期の当ゲームにおけるプロデュースは著しい苦行で、全てのアイドルはラジオに通いまくってメンタル値を上げ、審査員からの口撃に耐える戦術のみが勝利に結びついた。誰がこんなゲームをやると言うのだ……と開き直ると、本当に悪質なように思えてくる。私はこれで元々ゲームが好きだから、優れていると思えないゲームに積極的に関与しようと思えなかった。
変わったのは、ストレイライトの面々が実装されてからだった。
現在でこそnoctchillメンバーや、或いはSHHisのシナリオが注目されがちであるが、黛冬優子が実装された当時のインターネット空間における彼女の取り扱いは独特なものがあった。私でさえ、久々にこのゲームを起動してプレイしようと思ったぐらいで、適当にやったプレイであれだけ難しかったWING優勝をあっさりと達成してしまった。
というように、私というユーザーはアイドルマスターシャイニーカラーズと(少なくともストレイライトが登場するまでは)縁遠いものだった。
ただし、アンティーカだけは別だった。
イルミネーションスターズ、アルストロメリア、放課後クライマックスガールズの楽曲には全くピンと来ない一方で、ダークな雰囲気を持つアンティーカの楽曲には稼働当初から惹かれるものがあった。
本体のゲームはロクにプレイしないのに、アンティーカのCDだけは買っていた。純粋に曲が好きだったからだ。
その楽曲を聴く中で印象に残るのは、白瀬咲耶の一部ユーザーが宝塚的とも言うその力あるVoではなく、どこかから聴こえてくる『やたらと甘ったるい声』だった。
この声の主とは一体誰なのだろう?
当時の仕事の関係で小雨降る深夜の路上を歩く最中、プレーヤーで耳にするその曲。
美しい歌詞だ。昔私が好んでいた『灼眼のシャナ』の「緋色の空」や「JOINT」のような美しきタイトルコール。主題の提示。あの頃のゼロ年代コンテンツの幻影がアンティーカの楽曲には存在していた。
しかし同時に気になる。
『ラビリンス・レジスタンス』の導入
僕は何度だって声をあげながら
行くんだ ラビリンス・レジスタンス
その『甘ったるい声』の主は一体どこに居るのか?
それが私と、アイドルマスターシャイニーカラーズのキャラクター。三峰結華との出会いだった。
後に私は熱心なシャニマスユーザーになり、とくに芹沢あさひに強烈な熱を上げてそのシナリオに心酔していく中で、アンティーカだけは歌から入っていった。私にとって当ゲームで特別な地位を占めるのがストレイライトとアンティーカなのであるが、ストレイライトがそのシナリオに魅せられたのに対し、アンティーカは歌に魅せられていた。そういう意味ではより純粋な欲求がアンティーカにはあった。かつての川田まみやfripSideに感じたあのメロディの幻影を、私はアンティーカから見出していた。
ここからまた年月は経過した。
私は当ゲームをやり続けた。シナリオもそうだが、楽曲にも大きな期待を寄せていた。
『THE IDOLM@STER SHINY COLORS GR@DATE WING 03』
これは完璧なアルバムの一つとして数えられる。
そもそもがブギーポップを経由してLed Zeppelinや各種プログレッシブ・ロックにハマり、ここ一年ぐらいでクラシック音楽に手を出した私にとって、二次元コンテンツ楽曲は「私、今これを聴いています」とは言いづらいものだった。
こうした抵抗。オタクコンテンツというものは究極的には表に出すべきものではないという感覚を現代っ子が持っていないことは一種幸福なことのように思う。ハルヒブームの真っ盛りの中にあっても『ハルヒは例外』であって、私のように『灼眼のシャナ』その他如何にも”オタオタしい”ものに惹かれてきた人間への冷遇は確かに存在していた。
ニコ動の盛り上がりも私には遅すぎた。世間の人々の話の俎上にゲーム実況者や歌い手の話題が上がる頃には既に私は同世代そのものから距離を取っていた。私が未だに名前を覚えているゲーム実況者集団と言えばボルゾイ企画であるし、今回の騒動の根幹に居るもこうなんぞ、ポケモンでイキって色々やっただけのポっと出じゃないか。大体、ニコ動コンテンツの人間が何故芸能人みたいな扱いがされているのかさえ、歳を取って純文学に突っ走ってしまった私には今も理解半ばである。
洋楽を嗜むユーザーであれば理解できるのではないかと淡い期待を込めて話をするのだが、ジャケットとはアルバムのイメージを策定するものの一つである。
例えばU.K.の名盤「Danger Money」は内容もさることながら、そのジャケットの美しさと簡潔さにおいても特筆すべきものがある。
ここで重要なのはU.K.の「Danger Money」のジャケットが美しいかどうかではなく、アルバムの総合評価にはジャケットも込みになるという認識の共有である。
そうした点から考えても、アンティーカの三枚目のアルバム『THE IDOLM@STER SHINY COLORS GR@DATE WING 03』は”完璧なアルバムの一つ”だったと言える。
宗教画的な構図。美しい陰影。アルバムの中身、音楽そのものも白と黒の対比。そして何より「振り向いてくれない」という悲恋の要素。良くも悪くも厨ニ的な装いを纏ってきた過去のアルバムとは明らかに違うイメージを、このアルバムは持っている。
繰り返すが、私は元々ハードロックは程々にプログレッシブ・ロックに耽溺してきたリスナーだ。アンティーカの楽曲傾向はメタルである。私は
「アンティーカのような曲が聴きたい」
と思い、メタルを調べた。けれども趣味に合うものは見つからない。
最後に辿り着いたのは、電気式華憐音楽集団だった。つまり、私の思う「アンティーカ的」なるものの構成要件のうちにはあの『甘ったるい声』があったのだ。
私にとって三峰結華=アンティーカだった……とまでは言えない。私は後にVoとしての技術を持つ田中摩美々であったり『ぶらり旅編成』でセンターとなり、以降もセンターとしてのイメージを有し続ける白瀬咲耶にも思い入れがある。けれども、三峰結華とその声優・成海瑠奈は少なくとも、アンティーカにとっては必要不可欠なVoだった。あの甘ったるい声は、ドライ・マルティニのオリーブや料理そのものに姿を見せないままに存在感を表すレモングラスのような――全体としての音楽ユニット、アンティーカの必須構成要件であった。
話はようやくここに戻ってきた。三峰結華と、その唯一の声優・成海瑠奈についてである。
三峰結華は雨女だ。
その出会いは雨で始まる。彼女は自分に自信がない。自己評価が低く『推し活』が彼女の趣味だ。そんな彼女をプロデューサー(以下Pと呼称する)はアイドルとして見出した。彼女はプロデューサーを何度も試す。調子に乗っているフリをしたり、おちゃらけてみたり、『自分ではない自分を演じ』たりした。アイドルがアイドルたること、その虚像性をあれほどえぐり出したシャニマスキャラは、少なくとも空前であった。絶後ではないのはSHHisを担当するユーザーであれば理解できるだろう。けれどもその、少女がただ少女であることの残酷さを三峰結華は体現していた。
三峰結華はプロデューサーを試す。プロデューサーがまかり間違ってアイドルと恋に落ちやしないか。私に振り向きはすまいか。私の魅力って何。これやってみてよ、出来るでしょ。できないよ・できるよと言わせるために、三峰結華は常にプロデューサーを試し続ける。けれども本当のところは誰にも分からない。もしかすれば、本当に、この三峰結華という少女はアイドルではなく、プロデューサーの隣に居たいのではないか? 杜野凛世が断言的にプロデューサーを好き好んでいるのとは明確に一線を画すその、危険線上でタップダンスを踊る『普通の女の子』――それが三峰結華だった。
危うげだった。
だからこそ言える。「きれいだったよ、なにもかも」――と。
私はこの三峰結華というキャラクターの危うさを思案し続けていた。彼女はもしアイドルではなかったら、ホモソ的だったサークルを間違いなく崩壊させるであろうし、究極的には人なんて誰も信じちゃいないのに、そのじつ誰かがその究極的には人なんて信じちゃいけないという一線を超えて、自分とダンスを踊ってくれるのではないか? と、どこかで今もまだ信じ込んでいる。
だから、私は三峰結華が好きだった。もう二度と三峰結華は帰ってこない。少なくともアンティーカの必須構成要件であった彼女はもう二度と帰ってこない。私が持っている『BRILLI@NT WING 03』『FR@GMENT WING 03』『GR@DATE WING 03』『L@YERED WING 03』で、その甘い声で私をゼロ年代の幻影の中へと誘おうとするアンティーカは変質し、もう二度と同じ形には戻らない。
例の騒動が起きた時、私は即座に思った。
「あの三峰結華の声優・成海瑠奈は虚像たる三峰結華のその危うげな感覚に、現実の方が引き摺られてしまったのではないか?」
三峰結華は危うげで、人間関係を崩壊させてしまうような雰囲気を持つ少女だ。
彼女のシナリオの中でも傑作と称される【NOT≠EQUAL】三峰結華のシナリオそのものより、私はグレードフェスにおける同カードの能力の方に目が行く。何故ならこの【NOT≠EQUAL】三峰結華は『注目度が下がれば下がるほど威力を増す』のである。
けれども彼女は見られたいのだ。しかし、安易に見られたくないし、見られたフリもしたくないのだ。ベトナムの密林の如く、攻め込むもの全てを飲み込んでしまう。だから彼女は、プロデューサーを試し続ける。
「さ、勘違いよろしく」
私が三峰結華のシナリオの中でももっとも好き好んでいる【♡コメディ】三峰結華のガシャ画面で彼女はそう言った。皮肉な、その台詞。勘違いをすれば全てお終いだと決めているのは他でもない君、三峰結華ではないのか?
告白しよう。
私はあの騒動を目にした時、確かにこう言った。
「キャラクターを演じているからといって、声優がキャラクターに似る必要性はどこにもないだろう」
確かに私はそう言った。自己防衛本能か? あの時の私は怒りと悲しみで満ち満ちていた。その直後、半月で十万文字を越える長編小説を書いた。そうでもしなければこの騒動の嵐に耐えられなかったからだ。
かの名盤『THE IDOLM@STER SHINY COLORS GR@DATE WING 03』の楽曲、純白トロイメライの歌詞が脳裏にリフレインする。
「選んでよ」
「選んだら」
「選んだよ」
一 体 我 々 は 何 を 選 ん だ と い う の か ?
恋するたびに「雨のように」
代償はきっと「雨になって」
三峰結華のトレードマーク。それは雨だ。しとしとと冷たく降る、肌を割くような冷たい雨。
誰が何と言おうと、私は宣言したい。三峰結華の声優は成海瑠奈しか居なかった。私はライブにも行かないし、アイドル声優やそれを消費するビジネスモデルが嫌いだし、声優を単独で推したり、キャラクターと声優を同一視する・重ねようとする風潮も嫌いだ。けれども、三峰結華の声優は成海瑠奈しか居なかった……だから私は悲しい。もうあの『甘ったるい声』は、人魚姫のように消え去ってしまったのかと思うと、胸が傷んで、仕方がない。