常秋ノ晴レ間

実際に降っているのは雨、あられ。

人生は向こうからやってくる

自分の人生は自分で決めろ。
簡単に言うし、言われるし、世間に溢れているし、お前が死んで喜ぶものにお前のオールを任せるな、という歌もある。

でも実際、人が自分の人生を策定できるなんていうのは思い込み、勘違い、思い上がりのような気がしてしまう。
老人のプリウスのアクセルペダルを踏み込ませない努力が可能なのはトヨタであり我々ではないし、隕石とか鉄骨の落下とかその他事故とか今なら疫病とか、対策はあっても根本的解決は不可能だ。

だからじゃあ我々は人生を選択する余地がないのだからなるようにしかならんので鼻の穴の片っぽで怪しい粉を吸ってスゥゥゥゥっとなるというのもちょっと刹那的でやはりこれもどうかと思う。やけくそになることと平静でいることとはやはり違う。

では人生について人々が介入し得る余地はどこにあるのか、と考えると、それは何処に立って人生を迎えるか、という一点にあるように思う。つまり、人生のイベントが向こうから来るその位置に自分を置く。これは実際に不可能であると言える「自分で決める」ということとは少し違う。
運命的な死には運命的な人生がなければならない。運命的な人生を迎えるにはそれに足る生活上のスタイルがあるのではないか、という考え方だ。
それは例えば小説を書くということ。その小説を人に見せ、規定に合えば賞にでも出してみるということ。
例えば、均整の取れた身体付きを構築して維持するということ。
例えば、冷蔵庫の裏に秘蔵の酒を一つ隠しておくということ。
これは全ては伏線であり、回収されるか否かは天に在します我らが神の策定することであるが、そうした姿勢のないことには物事は転がってこない。
例えば小説を書いていれば、同じく小説を書く人間が現れるかもしれないし、均整の取れた身体があれば恋が巡ってくるかもしれないし、冷蔵庫の裏に酒があれば、死ぬ直前に友に酒を譲ることができる。
そうした伏線をはる生き方こそが、自己を策定するというとこであり、ひいては人生を選び取るということに繋がるのではないか。

結局のところ、人生は選ぶものではなく、向こうからやってくるものなのである。