常秋ノ晴レ間

実際に降っているのは雨、あられ。

三島由紀夫とその血族

1970年11月25日に壮烈な自決を行った作家・三島由紀夫の血縁が一種錚々たるものであることは、一部読書家の間で有名である。

三島自身は自らの血筋について

「私は血すぢでは百姓とサムラヒの末裔だが、~」

と語っているが、では彼の血筋を辿っていくと誰に行き着くのか?

彼の父の名前は平岡梓と言い、農商務省の官僚である。この農商務省というのは戦前に存在した省庁の一つであり、現在は存在しない。

その父。つまり、三島由紀夫から見て祖父にあたる平岡定太郎は樺太庁の三代目長官であったが、疑獄事件によって失脚する。

祖父の疑獄事件後について三島由紀夫は『仮面の告白』の中で以下のような記述を行っている。

 

 震災の翌々年に私は生れた。

 その十年まえ、祖父が植民地の長官時代に起った疑獄事件で、部下の罪を引受けて職を退いてから(私は美辞麗句を弄しているのではない。祖父がもっていたような、人間に対する愚かな信頼の完璧さは、私の半生でも他に比べられるものを見なかった。)私の家は殆ど鼻歌まじりと言いたいほどの気楽な速度で、傾斜の上をすべりだした。莫大な借財、差押、家屋敷の売却、それから窮迫が加わるにつれ暗い衝動のようにますますもえさかる病的な虚栄。

(中略)

 祖父の事業慾と祖母の病気と浪費癖とが一家の悩みの種だった。いかがわしい取巻き連のもってくる絵図面に誘われて、祖父は黄金夢を夢みながら遠い地方をしばしば旅した。古い家柄の出の祖母は、祖父を憎み蔑んでいた。

三島由紀夫仮面の告白』―

 

 三島由紀夫の『仮面の告白』の表記をどこまで信じるべきかというのも一つの議論の焦点だと言われる(本人が”半自伝的小説”と呼んでいる)わけだが、祖父が疑獄事件によって失脚し、樺太庁長官の職を退いたのは紛れもない事実であり、また私個人の判断で、この半自伝的と呼んだ小説について

三島由紀夫自身(作中における私)の自意識」

にのみ隠された裏側或いは本人が気付かない領域が未記述のまま残っている、という考え方を取りたい。

少なくとも、祖父が疑獄事件によって失脚したことや、この祖父と祖母の関係性について非常に言い難い部分が存在していたことは、三島由紀夫の父である平岡梓及び母倭文重によって書かれた評伝『倅・三島由紀夫』を読めば明らかである。

さて、ではこの樺太庁長官となった平岡定太郎から辿る平岡家とはどのようなものであるか? これは端的に言えば農民・平民である。

明治維新に至るまで苗字さえ持たなかった一族であり、この『平岡』という苗字は当時の一族が住んでいた地名から取られたのではないかと言われている。

この平岡家の六代目・太吉が経済的に成功を収め、自身の息子たちを学業のため東京へやった。そのうちの一人が、樺太庁長官となった三島由紀夫の祖父・定太郎である。この平岡家は先述した太吉の時代に、何やら”お上に逆らうようなことを”して所払い……つまり、引っ越す羽目になったそうなのであるが、ここでは割愛する。

 さて、次は祖母の血筋を見ていきたい。

三島由紀夫の祖母・なつ(通称・夏子。戸籍名はなつ。場合により奈津・奈徒などの表記が存在するが、ここでは『なつ』で統一する)の血筋は堂々たるもので、なつの父……三島由紀夫から見て曾祖父に当たる永井岩之丞は明治期の裁判官であり、永井尚志の養子であった。

この永井尚志というのは、幕末好きには少し名の知られた人物かもしれない。

その祖先に、戦国時代の小牧・長久手の戦いにおいて池田恒興を討ち取った武将・永井直勝を置き、彼・永井尚志は幕末においては幕府の要人の一人として数えられた。

幕府が決定的な敗北を喫した鳥羽・伏見の戦い以降も榎本武揚に付き添い、箱館戦争に至るまで同行し続けた人物である。

幕末三大人斬りの一人とされる田中新兵衛が捕らえられた時、その監視役を務めていたのが彼・永井尚志であり、この時に田中新兵衛したために、永井尚志は今でいう謹慎処分を受けた。

後に三島由紀夫は映画『人斬り』の中でこの田中新兵衛役を演じることになり、林房雄宛の書簡において

「明後日は大殺陣の撮影です。新兵衛が腹を切つたおかげで、不注意の咎で閉門を命ぜられた永井主水正の曾々孫が百年後、その新兵衛をやるのですから、先祖は墓の下で、目を白黒させてゐることでせう」

と書いたとされている。

また、永井尚志が箱館戦争五稜郭の戦いまで付き添ったということは、新選組土方歳三や彼に付き添っていた市村鉄之助らとも面識があったということにもなり、永井尚志が歴史の中に明確な足跡を残した人間の一人であることが伺える。

三島由紀夫の祖母・なつの父である永井岩之丞も、この養父・永井尚志に付き添って五稜郭まで行ったとされており、彼が時代もあろう、大量に拵えも拵えた六男六女の一人。その長女が三島由紀夫の祖母・なつなのであった。

この永井家を辿った末の親戚の一人に作家・永井荷風が居るのだが、この系譜図もかなりややこしいような(何せ永井荷風から数えて十二代前まで遡る)ので、ここでは割愛させていただこうと思う。

 では実際に、三島由紀夫と距離の近い祖父から話をしてみよう。

三島由紀夫の父方の祖父・平岡定太郎が樺太庁の長官であったことは再三の記述の通りであるが、どうやら彼はあの有名政治家・原敬に重用されていたようで、例の疑獄事件以降も東京市道路局長を務める等したが、この職も大正9年は辞任。その翌年、大正10年に定太郎の後ろ盾であった原敬は暗殺されてしまう。

「祖父の事業欲が悩みの種」と『仮面の告白』の中で記述が存在しているが、実際に一度、怪しい者に担がれて明治天皇の親筆と偽った書を売っていたということで新聞に顔が乗っているそうで(結局これは不起訴となる)あるが、少なくともこの祖父が原敬暗殺以後に怪しい取巻きを持っていたことは間違いないと考えられる。

母方の祖父。三島由紀夫の母・倭文重の父である橋健三は、開成中学校の関係者・漢学者である。三島由紀夫の母・倭文重はいわゆる文学少女と呼べるような幼少期を過ごしたそうであるからこれはこの橋健三の教育に寄るものではないかと考えられる。

 次に語る祖母は重要である。著書『仮面の告白』や『倅・三島由紀夫』その他多数の評伝で少年・平岡公威の基礎を作ったと言及される祖母・なつについて話をしてみよう。

祖母・なつのその系譜を辿れば永井尚志や永井直勝に辿り着くという話をしたが、なつの父・永井岩之丞とその一家は多産であった。その中で、幼少の頃から癇症……つまり、気の短いヒステリックな女性であったとされるなつは有栖川宮家へ行儀見習いとして五年間預けられた。行き先は当時の宮家の一つではあるが、体の良い厄介払いであるという認識もできる。実際に幾つかの評伝(ジョン・ネイスン『三島由紀夫 ある評伝』等)では、そう捉えたと考えられる記述がなされているが、ここでは断言をしないものとする。

このなつと、例の祖父・定太郎の結婚とは、新進気鋭の経済的成功者(しかし身分の上では平民)である平岡家と、多数の子を持つ名家の血筋である永井家の婚姻であったと考えられる。

この、貴族の格付と婚姻とが結び付けられるイメージは三島由紀夫豊饒の海の一作目『春の雪』のイメージにも重なる部分が存在する。

『春の雪』における主人公・松枝清顕は幼少期に綾倉家へとして預けられるという過程は、この祖母・なつが有栖川宮家へ預けられる構図を見出すことも可能だ。

祖母・なつは貴族趣味と文学趣味とを持つ文学少女であったと、永井家における弟が後に語っている。

三島由紀夫がその幼年期に谷崎潤一郎泉鏡花といった日本文学に親しみ、歌舞伎や能を見せられていたというのは有名な話であるが、そうした気質を持つなつが、官僚であり実業家然とした空気を持つ実学的な定太郎と気が合うかと言われれば、かなり難しいことのように思われる。

しかもその上、後年の疑獄事件で平岡定太郎は樺太庁長官の職を辞し、その実領域における権威をも消失した。その事実に、彼の妻であり文学少女であったヒステリックなこのなつが、何を感じたのか……。

歳を取り、坐骨神経痛をも患い、その癇癪に過剰さが加わり始めた頃合いに、孫。平岡公威(後の三島由紀夫)を授かる。

彼、三島由紀夫学習院に通っていたのは有名な話であるが、彼の貴族の血筋とは母方に遡るもので、三島由紀夫自身……つまり少年・平岡公威は平民として扱われる身分なのである。

当時の学習院は貴族・皇族の師弟が殆どであり、彼が学習院へ入学するには紹介者が必要になったそうである。

それに加えて、幼少期の彼は病弱であり、加えて祖母・なつの過保護な教育もあって身体を動かすのは得意ではない。子供には子供特有の残酷さがある、とすれば彼の学内における立ち位置について……少なくとも、幸福な想像はできそうもない。

祖母・なつのこの一連の貴族趣味。少年・平岡公威への教育傾向は、彼女自身のから来ている、と言ったら……言い過ぎであろうか?

永井家という明確な貴族の家柄に生まれながら、そこで疎まれ、有栖川宮家で過ごした期間は彼女の貴族的意識をより強めたであろう。

そうして渡った先……平岡家においても、定太郎の疑獄事件以後はその実態としての地位を喪失し、外から見れば平民そのものである。

また同時に、三島由紀夫は後年老いに対する恐怖を繰り返し述べている。豊饒の海四部作における、年代を渡っていくキャラクターの老け込み・加齢や『禁色』における檜俊輔の扱いも同様であろう。

こうした老いの恐怖の具現こそが、祖母・なつなのではないか?

かつての祖母・なつは美しい人であった(Wikipediaページ『平岡なつ』の項目に写真がある)というのに、老いて苦しみ、このようになった……。

三世代に渡る平岡家の因習と家庭空気が作家・三島由紀夫の根本にある。

 

 さて。

次に、三島由紀夫の両親の話をしようと思う。

彼の父・平岡梓が文学を理解しない人物であったことはファンの間では有名である。

幼少期に書かれた作品がこの父に見つかると、父はこれが書かれた作文用紙をビリビリと破り捨てて見せたという。現代とは違うのでコピーなどあるはずもなく、書き直した結果、出来が悪くなった作品もあったとされている。

父・梓と彼の気質の違いについては多数のエピソードがある。

息子である公威と妻・倭文重は猫が好きだったが、父・梓は猫が嫌いであったし、その猫を可愛がる息子の気質自体が『男らしくない』と感じ取れたそうである。

そのため猫を捨ててきたり、猫の餌に鉄粉を混ぜて殺そうとしたり、手練手管でこれをやめさせようとするが、結局は上手く行かなかったという。

端的に言ってしまえば、父・梓と平岡公威(三島由紀夫)の本質的な関係性とは、終ぞこの猫の逸話と変わらぬ様子で進行していったもののように思えてならない。

文学にしても同じで、父・梓が息子を男らしく育てようと様々な手を加え、文学を否定し実学である法学に目を向けさせ、とうとう東京帝国大学法学部法律学科へと進学させ、進路についても大蔵省官僚にさせようとした。

ここにもまた、という忌まわしい要素が彼に付き纏う。

父・梓は農商務省の官僚であったが、省庁には(現在においても)それぞれの権限の強弱があり、梓は大蔵省官僚から何度も横柄な態度を取られて悔しい思いをした。その結果として父は息子に大蔵省へ入れと言ったのである。

ここから先はよく知られている通り、三島由紀夫は半年とちょっとでこの大蔵省をやめて作家の道を選んでしまう。その時に梓が言ったのは、このような文言であった。

 

役所をやめてよい。さあ作家一本槍で行け、その代り日本一の作家になるのが絶対条件だぞ

―平岡梓『倅・三島由紀夫』―

 

なんと都合の良い!……と、私は思ってしまう。

幼少の彼が文学をやることを否定したこの父が、作家と官僚の二足の草鞋を履く生活の中で息子が危険な目にあったとは言え、たんに息子思いの故にそう言ったと考えるには、この父の行動とは矛盾が多すぎる。

作家・三島由紀夫の根幹にある整然としたロジックには、法学で学んだ観念が生きていると奥野健男含む幾つかの論者が指摘しており、実際に三島由紀夫はモチーフとしての弁護というものを複数の作品に込めている。(『奔馬』における清水や或いは『美しい星』のラストシーン等)

しかし、そうした物々を貢献の一言で片付けてしまうには、父と彼・三島由紀夫との関係性は単純なものではないと私は感じる。

仮に、祖母の教育から、後述される母の文学教育について、より早い段階でこの父・梓が諦めをつけていたら、文学者・三島由紀夫はどのような形態を取ったのだろう、という一種のIFも考えられるだろうし、仮にそうでなかったとしても、後の大文学者・三島由紀夫の原稿をビリビリに破り捨てたという事実を軽んじるべきではない。

 母の話に移る。

三島由紀夫の母・倭文重の父が漢学者であったことは先述した通りであるが、平岡公威……後の三島由紀夫は、その死に至るまで母を敬愛していた。

 

若いころの母は大へん美人であつた。(中略)母親は、私にとつて、こつそり逢引きする相手のやうなもの、ひそかな、人知れぬ恋人のやうなものであつた。母には、姑との間の苦労や、子供を姑に独占された悲しみや、いろいろな悩みはあつたらしいが、子供の私には、さういふ悩みは見えなかつた。そして、たまにこつそりと母に連れられて出る日が、私の幼時の記憶の中で、まるで逢引きの日のやうに美しく美しく残つてゐた。

母は私に天才を期待した。そして、自分の抒情詩人の夢が息子に実現されることを期待した。(中略)私は、抒情詩人でもなく天才でもなく、散文作家として成長するやうになつたが、長いこと、その抒情的な夢から抜けられなかつた。私は無意識のうちに、母の期待するやうな者にならうとしてゐたのであらうと思ふ。なぜなら、物心つくと同時に私は詩を書き始めたからである。私の詩や物語の最初の読者は母であつた。母は、私に芸術的才能があるといふことを誇りにした。

三島由紀夫『母を語る――私の最上の読者』―

 

彼の父・梓が三島由紀夫の文学的傾向の反対者であったことは紛れもない事実であるが、その上で母・倭文重は彼の文学の賛成者であり最初の読者であった。

しかし同時にこの母は、少年・平岡公威の幼少期における不可能の象徴だったのではないだろうか……という一つの疑問を差し込みたい。

言ってしまえば、大半の子供というのは『親の心子知らず、子の心親知らず』という文言があるように、距離が近いがゆえに或る種のが生じるものである。

その中で、完全に父が不理解の側に立ち、母が理解の側に立った。

そして、母が理解し肯定するという要素は祖母の持っていた貴族趣味・文学趣味の賜物である。少なくとも少年が、祖母の部屋で音の出る玩具や遊びを禁止され、常に女の子と遊ばせたという事実は、幼い少年にとって実に閉塞的であっただろうと考えられる。そして、祖母の手から離れ祖母が没した後にも父という不理解そのものが彼の文学という可能性を否定し、一種の圧政と反対をしいた。母は賛成者であり、家庭内におけるレジスタンスのような関係性を結んでいたのであろうが、根本的にこの閉塞的状況を解決する術を持たない。

つまり、母とその息子。文学者・三島由紀夫との関係性とは親子ではなく、戦友としての心であり、母はその母たることの役割を遂行し得なかったのではないか?

この苦言を呈する母の抵抗と父の不理解という構図は、平岡梓『倅・三島由紀夫』の中にも表れている。

メインの書き手は父・梓であるのに、そこに定期的に苦言を差し込むような形で

「あなたは息子のことなんて一つも分かってあげなかったじゃないですか」と言うのである。

私にはこの構造そのものが、三島由紀夫とその両親に存在していた(トルストイ風に言うのであれば「不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」という)歪んだ実情を表しているもののように思えてならない。

 

あなた(梓)みたいな水牛のような行動一点張りの人、無神経な人には、公威の心なんててんで判りっこはありません

(中略)

公威の本当の心の判るのはあたしたった一人なんです

―平岡梓『倅・三島由紀夫』―

 

また、ジョン・ネイスンの書いた三島由紀夫の評伝の一部を引用する。

 

三島の両親との会見は、またそれなりに居心地の悪いものであった。母の倭文重は三島の生涯においてもっとも重要な女性であるから、私は父親の梓からのみならず、倭文重の口からも話を聞きたかった。しかし、私が両親の離れを訪ねたとき、倭文重は姿を見せなかった。だが実際には隣室で私と夫との会話を聴いていて、時おり襖越しに夫の言葉を訂正したのである。「あなたが公威を怖がらせたんですよ。だから泣いたんじゃないの」とか、「そばにいなかったのになぜわかるの。あなたは公威がそばに居てほしかったときには、いつでも居ませんでしたよ」とか倭文重はいった。アメリカだったらこんな場合、私は襖越しに挨拶して、私たちの話に加わるように頼んだことだろう。が、東京ではそんなことは考えられない。だから私は、老人が息子たちにほどこしたスパルタ教育のことを滔々と語るのを聞き、いっしょに倭文重がその場に居ないふりをして、何時間も居たたまれぬ思いで坐っていたのである。

―ジョン・ネイスン『三島由紀夫 ある評伝』―

 

このにという要素こそが、この三島由紀夫の母の根本的な特質なのではないだろうか、と私は考える。

ジョン・ネイスンはこの夫婦の応対について、日本的後進性ゆえというような文脈を滲ませるが、果たして本当に、そうなのであろうか……?

一歩引くという日本的美点と、踏み込むことをしないという安全欲求が相互に噛み合い、究極的なところには触れない。そうした大人的な処置・処世術が適用されているような、そんな思いを一読者として抱いてしまう。

 さて。

三島由紀夫の親族のうち、その妻や弟などの話も調べてみると非常に面白いし、とくに妻については何故我々三島由紀夫愛読者が情報ソースを集めるのに苦労してしまうのかという理由が詰まっているので、話したいのは山々なのであるが、話の結びに展開したい論理とは直接的な関係を持たないので割愛させていただこうと思う。

以前私は『三島由紀夫と同性愛』という記述の中で

「妹に対する近親相姦的情愛が彼の同性愛の基礎を作ったのではないか?」

と書いたのですが、この妹に加えて母そして祖母という三島由紀夫の二十歳に至るまでの女性の親族を相互に絡めて話をしたい。

 奥野健男は著書『三島由紀夫伝説』の中で、このように記述を行っている。

 

幼い三島は祖母を畏怖し、憧憬し、その心を懸命に読もうとし、今祖母はどう思っている、どう見ている、何を考えている、と次第に祖母の心でものを見、ものの好き嫌いを感じ、考えるようになる。ついに殆ど祖母奈津と無意識的に同一化してしまったのだ。

奥野健男三島由紀夫伝説』―

 

こうした論理展開から、三島由紀夫性的嗜好。リビドーの傾向そのものを祖母・なつが規定してしまった……という話を奥野健男はしているのだが、果たして本当にそうなのであろうか?

 何故私がそのように疑問を差し挟むのかと言われれば、それは三島由紀夫に存在していた老いに対する恐怖の根幹にこの祖母が関わっていると推測しているからだ。

三島由紀夫は度々、老いることの恐怖やその見窄らしさを作品で表しているというのは読者であれば嫌でも理解できるものだが、確かに彼・三島由紀夫。少年・平岡公威は祖母に恐怖しただろう。

寧ろ私は、三島由紀夫が持つ根源的恐怖の中に祖母は息づいていて、この祖母が観念の怪物として作中に度々キャラクターの形をとって表れたのではないかと推測する。

それは例えば『禁色』の檜俊輔で、この人物は三島由紀夫が仮に文学者として成功して歳を取った末での自画像とも捉え得るであろうが、男性化し、自己が見た老いそのものの恐怖の具現である祖母のイメージが重ねられているのではないか?

豊饒の海四部作における蓼科やみねのイメージ元となり、最後の『天人五衰』においては月修寺門跡(綾倉聡子)となって、主観者である本多繁邦を「夏の日ざかりの日を浴びた庭」へと導くのではないか?

 そして、一種の万能を示す家庭内の独裁者。ヒステリックな祖母に対し同一化を図るのであれば、あの美しい肉体に対するサディスティックな情景は。その攻撃性の源となったのは老齢であった祖母が若者に嫉妬していたから、なのだろうか?

もしそうであるならば、三島由紀夫の若さと肉体に対する憧れは老いに対するアンチテーゼとして生じたものということになってしまうのだが、すると今度は老いへの恐怖という主題が若さへの憧れに勝るということになる。加えて、祖母との自己同一化という論点ともズレてくる。その家庭内独裁者は老人であった。であれば、ないだろうか?

 三島由紀夫サディズムは、一種のマゾヒズムでもあった。

『聖セバスティアンの殉教』によって「ejaclatio」を体験するという過程そのものが彼自身の倒錯を表しており、また汚穢屋の紺の股引きに憧れるという『仮面の告白』において描かれた心理。悲劇的なものに対する情感とは、無論祖母が平民の家に嫁いで苦労したという一種の悲劇もあるであろうが、次に母が不理解の象徴たる父に嫁ぎ、そして自己自身が平民でありながら学習院へと入り苦労をし、夭逝する東文彦や自決する蓮田善明といった周辺人物が存在しているところを考えても、彼自身の悲劇性のモチーフ。イメージ元となる存在は彼の周りに無数に存在しているのである。

初恋相手として『仮面の告白』で描かれている近江に悲劇を見出す精神。そしてその情感には紛れもない嫉妬が存在していたという彼の記述。

「美しさ」×「悲劇」が三島由紀夫の美的モチーフの根幹であったとするならば、その美のモチーフは寧ろ、平岡家という悲劇的なシチュエーションに身を置いている母にこそ見出し得るのではないだろうか。

美しい母という情念は、祖母の手によって母から離れていたというところに端を発する。母が母ではなく、家庭内における戦友であった。

そして以前『三島由紀夫と同性愛』の中で記述した通り、三島由紀夫がある程度の歳になってから初めて出会った活発な同年代の女性が妹であった、となれば……夭逝するという悲劇を妹もまた同時に内包しているということになる。

物事はより複合的に解釈するべきだ、と私は考える。

こうした論点は三島事件そのものに対するある一つの解答にも帰結する。

つまり

三島由紀夫は、自分自身がサディスティックな情感を向け得る対象となった上で、そのサディズムを自己に適用することによってマゾヒズムを完遂しようとしたのではないか?」

というものである。

彼は(とくに晩年)文武両道というモチーフに強くこだわったが、同時にこのような話もしている。

「私は健康な青年の外面は好きだが、内面は嫌いである」

と。また同時に、自身の妻については

文学少女などごめんだ。私の作品なんて知らない方がいい」

と話し、また楯の会の会員についても

「私のものを含む文学を好むような人間を入れてはならない」

と語っている。

しかし同時に自己の作品のモチーフでは文武両道を提示し、自己そのものが文武両道という形式を満たそうとする努力をし続けてきた。

文武両道への羨望と、裏返しの矛盾した文学への嫌悪。文学を嗜むものに対する侮蔑……これを一言であらわすのは難しいが、複数の解釈をすることが可能である。

例えば、自己がサディスティックな情感を抱く対象としての文武両道を他者に見出すことで殺人を行う可能性から遠ざかるための社会的な対処。

例えば、自分自身がそうなりたいが故に、そうなってしまった他者を遠ざけようという嫉妬心。

様々な解釈が可能である。

この『三島由紀夫とその血族』という一連の私の記述は、これが正しい解釈であると押し付けるものではなく、複数の情報を提示しながら多義的に解釈することが可能な三島由紀夫という作家そのものに対する賛歌である……という言葉をもって、記述を終了させていただきたいと思う次第である。

以上。