常秋ノ晴レ間

実際に降っているのは雨、あられ。

三峰結華の唯一の声優によせて

idolmaster-official.jp

 

「きれいだったよ、何もかも」

 

本当に?

本当にそう言い切れるのか?

 

自問自答だけが、伽藍堂な私の中で響き渡って、誰も言葉を返さない。

ただ腹が立つ。

けれども、このムカつきは多分、一般的なファン層のものとは違う。

 

そもそも私はアイドル声優という概念を好まない。

私が中学生の頃、私がオタクになりたてだった頃。

今や古き『ハヤテのごとく』で”なってはいけない対象”としてのオタクになった頃。

灼眼のシャナ』のライトノベルを机に大量にしまい込んでドン引きされていた頃。

あの頃は丁度アイドル声優流行真っ盛りの時代。

今思えば、林原めぐみの頃からその兆候はあったのであろう、声優のアイドル化。歌手化というその潮流。その中にあって声優の本義はそこにはないなどと生意気なことを考え、思っていた若い時分の私。

 

今流行りの『推し活』や『推す』という言葉自体、私は好きじゃない。

『推し活』という言葉から私が感じるのは、第一に資本主義への賛美だ。

消費動向が冷え切ったデフレ・経済停滞の長く続くこの日本という国において、とかく消費を前提とし、消費することを良しとし、それをこそアイデンティティとしようとする作為。その流れに私は組み込まれたくなかった。良い物は良い物であり、悪い物は悪い物であり、それを身体に取り込むか否かを決定するのは私自身にこそある。

なのに世間はやれ『推し活』だ、などと言い、好きなコンテンツのライブに駆けつけて会場限定のしょうもないグッズ(全てがそうだと言う気はない)や、会場限定でしか売られない物々にプレミア値をつける中古屋に対する恨み辛み憎しみはこれからも私という一個人に蓄積していくことだろう。

私が『推し活』という言葉に感じる第二の印象は、対象を外部化(他人化)しようとする作為である。

「推しだから」

この一言があるだけで、どれだけの人がその対象を他人のものとしてきただろう。

古くは”推し”などという言葉も存在しなかったアイドル黎明期。花の中三トリオの時代からそういった傾向はあった。

「普通の女の子に戻りたい!」

キャンディーズ伊藤蘭はそう叫び、今もその言葉は残り続ける。

考えてみれば――おかしな話じゃないか。普通じゃない女の子、普通の女の子ってなんだ? いつの間にかアイドルは普通じゃない。僕たち・私たちの側に彼ら・彼女らは居ないことになっている。まるで三途の川のようだ。その彼岸と此岸の境目はどこにあるのだ。何故彼ら・彼女らを川向うへと平気な顔をして人々は追いやることができるのか?

私が好む作家は何人も居る。しかし、彼ら作家と私は川向うではなく同じ場所に居ると思う。本当に川を渡った者だけが向こう岸にいる。何故アイドルや声優は生きているのに、川向うへと追いやられているかのように記述され、そして想われるのか。

 

アイドルマスターシャイニーカラーズというコンテンツと私の関係性の話をすると、私というユーザーはあまりコンテンツに寄与していない、褒められたものではない類のファンだと感じられるし、他者からそれを指摘されたとしても積極的に否定しようとは思わない。

 

何せ私は一年間、アイドルマスターシャイニーカラーズを放置していた。

最初期の当ゲームにおけるプロデュースは著しい苦行で、全てのアイドルはラジオに通いまくってメンタル値を上げ、審査員からの口撃に耐える戦術のみが勝利に結びついた。誰がこんなゲームをやると言うのだ……と開き直ると、本当に悪質なように思えてくる。私はこれで元々ゲームが好きだから、優れていると思えないゲームに積極的に関与しようと思えなかった。

変わったのは、ストレイライトの面々が実装されてからだった。

現在でこそnoctchillメンバーや、或いはSHHisのシナリオが注目されがちであるが、黛冬優子が実装された当時のインターネット空間における彼女の取り扱いは独特なものがあった。私でさえ、久々にこのゲームを起動してプレイしようと思ったぐらいで、適当にやったプレイであれだけ難しかったWING優勝をあっさりと達成してしまった。

 

というように、私というユーザーはアイドルマスターシャイニーカラーズと(少なくともストレイライトが登場するまでは)縁遠いものだった。

ただし、アンティーカだけは別だった。

イルミネーションスターズ、アルストロメリア、放課後クライマックスガールズの楽曲には全くピンと来ない一方で、ダークな雰囲気を持つアンティーカの楽曲には稼働当初から惹かれるものがあった。

本体のゲームはロクにプレイしないのに、アンティーカのCDだけは買っていた。純粋に曲が好きだったからだ。

その楽曲を聴く中で印象に残るのは、白瀬咲耶の一部ユーザーが宝塚的とも言うその力あるVoではなく、どこかから聴こえてくる『やたらと甘ったるい声』だった。

この声の主とは一体誰なのだろう?

当時の仕事の関係で小雨降る深夜の路上を歩く最中、プレーヤーで耳にするその曲。

 永久機関にしていくよ アンティー

美しい歌詞だ。昔私が好んでいた『灼眼のシャナ』の「緋色の空」や「JOINT」のような美しきタイトルコール。主題の提示。あの頃のゼロ年代コンテンツの幻影がアンティーカの楽曲には存在していた。

しかし同時に気になる。

『ラビリンス・レジスタンス』の導入

 僕は何度だって声をあげながら

 行くんだ ラビリンス・レジスタンス

その『甘ったるい声』の主は一体どこに居るのか?

 

それが私と、アイドルマスターシャイニーカラーズのキャラクター。三峰結華との出会いだった。

後に私は熱心なシャニマスユーザーになり、とくに芹沢あさひに強烈な熱を上げてそのシナリオに心酔していく中で、アンティーカだけは歌から入っていった。私にとって当ゲームで特別な地位を占めるのがストレイライトとアンティーカなのであるが、ストレイライトがそのシナリオに魅せられたのに対し、アンティーカは歌に魅せられていた。そういう意味ではより純粋な欲求がアンティーカにはあった。かつての川田まみfripSideに感じたあのメロディの幻影を、私はアンティーカから見出していた。

 

ここからまた年月は経過した。

私は当ゲームをやり続けた。シナリオもそうだが、楽曲にも大きな期待を寄せていた。

 

 

THE IDOLM@STER SHINY COLORS GR@DATE WING 03』

これは完璧なアルバムの一つとして数えられる。

そもそもがブギーポップを経由してLed Zeppelinや各種プログレッシブ・ロックにハマり、ここ一年ぐらいでクラシック音楽に手を出した私にとって、二次元コンテンツ楽曲は「私、今これを聴いています」とは言いづらいものだった。

こうした抵抗。オタクコンテンツというものは究極的には表に出すべきものではないという感覚を現代っ子が持っていないことは一種幸福なことのように思う。ハルヒブームの真っ盛りの中にあってもハルヒは例外』であって、私のように『灼眼のシャナ』その他如何にも”オタオタしい”ものに惹かれてきた人間への冷遇は確かに存在していた。

ニコ動の盛り上がりも私には遅すぎた。世間の人々の話の俎上にゲーム実況者や歌い手の話題が上がる頃には既に私は同世代そのものから距離を取っていた。私が未だに名前を覚えているゲーム実況者集団と言えばボルゾイ企画であるし、今回の騒動の根幹に居るもこうなんぞ、ポケモンでイキって色々やっただけのポっと出じゃないか。大体、ニコ動コンテンツの人間が何故芸能人みたいな扱いがされているのかさえ、歳を取って純文学に突っ走ってしまった私には今も理解半ばである。

洋楽を嗜むユーザーであれば理解できるのではないかと淡い期待を込めて話をするのだが、ジャケットとはアルバムのイメージを策定するものの一つである。

例えばU.K.の名盤「Danger Money」は内容もさることながら、そのジャケットの美しさと簡潔さにおいても特筆すべきものがある。

 

 

ここで重要なのはU.K.の「Danger Money」のジャケットが美しいかどうかではなく、アルバムの総合評価にはジャケットも込みになるという認識の共有である。

そうした点から考えても、アンティーカの三枚目のアルバムTHE IDOLM@STER SHINY COLORS GR@DATE WING 03』”完璧なアルバムの一つ”だったと言える。

宗教画的な構図。美しい陰影。アルバムの中身、音楽そのものも白と黒の対比。そして何より「振り向いてくれない」という悲恋の要素。良くも悪くも厨ニ的な装いを纏ってきた過去のアルバムとは明らかに違うイメージを、このアルバムは持っている。

繰り返すが、私は元々ハードロックは程々にプログレッシブ・ロックに耽溺してきたリスナーだ。アンティーカの楽曲傾向はメタルである。私は

「アンティーカのような曲が聴きたい」

と思い、メタルを調べた。けれども趣味に合うものは見つからない。

最後に辿り着いたのは、電気式華憐音楽集団だった。つまり、私の思う「アンティーカ的」なるものの構成要件のうちにはあの『甘ったるい声』があったのだ。

私にとって三峰結華=アンティーカだった……とまでは言えない。私は後にVoとしての技術を持つ田中摩美々であったり『ぶらり旅編成』でセンターとなり、以降もセンターとしてのイメージを有し続ける白瀬咲耶にも思い入れがある。けれども、三峰結華とその声優・成海瑠奈は少なくとも、アンティーカにとっては必要不可欠なVoだった。あの甘ったるい声は、ドライ・マルティニのオリーブや料理そのものに姿を見せないままに存在感を表すレモングラスのような――全体としての音楽ユニット、アンティーカの必須構成要件であった。

 

話はようやくここに戻ってきた。三峰結華と、その唯一の声優・成海瑠奈についてである。

 

三峰結華は雨女だ。

その出会いは雨で始まる。彼女は自分に自信がない。自己評価が低く『推し活』が彼女の趣味だ。そんな彼女をプロデューサー(以下Pと呼称する)はアイドルとして見出した。彼女はプロデューサーを何度も試す。調子に乗っているフリをしたり、おちゃらけてみたり、『自分ではない自分を演じ』たりした。アイドルがアイドルたること、その虚像性をあれほどえぐり出したシャニマスキャラは、少なくとも空前であった。絶後ではないのはSHHisを担当するユーザーであれば理解できるだろう。けれどもその、少女がただ少女であることの残酷さを三峰結華は体現していた。

三峰結華はプロデューサーを試す。プロデューサーがまかり間違ってアイドルと恋に落ちやしないか。私に振り向きはすまいか。私の魅力って何。これやってみてよ、出来るでしょ。できないよ・できるよと言わせるために、三峰結華は常にプロデューサーを試し続ける。けれども本当のところは誰にも分からない。もしかすれば、本当に、この三峰結華という少女はアイドルではなく、プロデューサーの隣に居たいのではないか? 杜野凛世が断言的にプロデューサーを好き好んでいるのとは明確に一線を画すその、危険線上でタップダンスを踊る『普通の女の子』――それが三峰結華だった。

 

危うげだった。

だからこそ言える。「きれいだったよ、なにもかも」――と。

私はこの三峰結華というキャラクターの危うさを思案し続けていた。彼女はもしアイドルではなかったら、ホモソ的だったサークルを間違いなく崩壊させるであろうし、究極的には人なんて誰も信じちゃいないのに、そのじつ誰かがその究極的には人なんて信じちゃいけないという一線を超えて、自分とダンスを踊ってくれるのではないか? と、どこかで今もまだ信じ込んでいる。

だから、私は三峰結華が好きだった。もう二度と三峰結華は帰ってこない。少なくともアンティーカの必須構成要件であった彼女はもう二度と帰ってこない。私が持っている『BRILLI@NT WING 03』『FR@GMENT WING 03』『GR@DATE WING 03』『L@YERED WING 03』で、その甘い声で私をゼロ年代の幻影の中へと誘おうとするアンティーカは変質し、もう二度と同じ形には戻らない。

例の騒動が起きた時、私は即座に思った。

「あの三峰結華の声優・成海瑠奈は虚像たる三峰結華のその危うげな感覚に、現実の方が引き摺られてしまったのではないか?」

三峰結華は危うげで、人間関係を崩壊させてしまうような雰囲気を持つ少女だ。

彼女のシナリオの中でも傑作と称される【NOT≠EQUAL】三峰結華のシナリオそのものより、私はグレードフェスにおける同カードの能力の方に目が行く。何故ならこの【NOT≠EQUAL】三峰結華は『注目度が下がれば下がるほど威力を増す』のである。

けれども彼女は見られたいのだ。しかし、安易に見られたくないし、見られたフリもしたくないのだ。ベトナムの密林の如く、攻め込むもの全てを飲み込んでしまう。だから彼女は、プロデューサーを試し続ける。

「さ、勘違いよろしく」

私が三峰結華のシナリオの中でももっとも好き好んでいる【♡コメディ】三峰結華のガシャ画面で彼女はそう言った。皮肉な、その台詞。勘違いをすれば全てお終いだと決めているのは他でもない君、三峰結華ではないのか?

 

告白しよう。

私はあの騒動を目にした時、確かにこう言った。

「キャラクターを演じているからといって、声優がキャラクターに似る必要性はどこにもないだろう」

確かに私はそう言った。自己防衛本能か? あの時の私は怒りと悲しみで満ち満ちていた。その直後、半月で十万文字を越える長編小説を書いた。そうでもしなければこの騒動の嵐に耐えられなかったからだ。

かの名盤THE IDOLM@STER SHINY COLORS GR@DATE WING 03』の楽曲、純白トロイメライの歌詞が脳裏にリフレインする。

 

 「選んでよ」

 「選んだら」

 「選んだよ」

 

一 体 我 々 は 何 を 選 ん だ と い う の か ?

 

 恋するたびに「雨のように」

 代償はきっと「雨になって」

 

三峰結華のトレードマーク。それは雨だ。しとしとと冷たく降る、肌を割くような冷たい雨。

誰が何と言おうと、私は宣言したい。三峰結華の声優は成海瑠奈しか居なかった。私はライブにも行かないし、アイドル声優やそれを消費するビジネスモデルが嫌いだし、声優を単独で推したり、キャラクターと声優を同一視する・重ねようとする風潮も嫌いだ。けれども、三峰結華の声優は成海瑠奈しか居なかった……だから私は悲しい。もうあの『甘ったるい声』は、人魚姫のように消え去ってしまったのかと思うと、胸が傷んで、仕方がない。